4月22日、広島高等裁判所(楢崎康英裁判長)で、光市母子殺人事件の差し戻し審判決がありました。判決は大方の予想通り、原判決を破棄した死刑判決でした。
(『朝日新聞』「変わるか、死刑の臨界点 光市母子殺害 2008年04月22日23時32分」、『毎日新聞』4月23日号朝刊「
「所謂事件名『光市母子殺害事件』差し戻し控訴審判決文」)
当時18歳の男が、当時23歳の女性と11ヶ月のその子を殺した事件です。弁護人は故意による殺人ではなく過失致死であると主張しましたが、どちらにしろ殺してしまった事は認めています。
被告人側は控訴しましたが、一度高裁で出た無期懲役を破棄して差し戻させた以上、最高裁の意志が死刑にある事は疑いありません。
しかし、この判決や報道に、私は形容しがたいもやもやしたものを感じました。
例えば、以下の内容です。
thessalonike2氏「世に倦む日日」「本村洋の復讐論と安田好弘の怠業 − 山口県光市母子殺害事件」、「感慨無量の控訴審差し戻し判決 - 死刑廃止イデオロギ-の敗北」
きっこ氏「きっこのブログ」「2008.04.23 命でしか償えないこと」
天木直人氏「天木直人のブログ」「2008年04月22日 本村洋さんの記者会見の感動を覚える」
おりた氏「昨日の風はどんなのだっけ?」「■[ニュース] 光市母子殺害事件で、差し戻し審は被告に死刑判決」
例えば。誰が最初に言い出したのか、被告人を弁護した、安田好弘弁護士らは死刑廃止運動にこの裁判を利用しているという主張。
thessalonike2氏もこの説に立ち、死刑推進の立場から激しく批判していますが、安田氏の反論(『東京新聞』2006年5月8日号「異端の肖像2006 「怒り」なき時代に 弁護士 安田好弘(58)」)を見るまでもなく、そんな事はあり得ません。
確かに安田氏は死刑廃止論者です。しかし、弁護団はそのような主張は一度もしていません。
訴訟で死刑廃止を持ち出すとすれば、まず現行法で被告人が死刑に相当する事を認める必要があります。でなければ、死刑廃止を持ち出す意味がないからです。しかし、死刑廃止運動のためだけに、被告人が死刑に相当すると自分から認めるような、あぶない橋をわざわざ渡るはずが無いでしょう。
批判する側は、もちろん被告人が死刑に相当すると思っているから、「死刑逃れのためにやっているに違いない」という結論に達するのだと思います。しかし、だからといって「死刑に相当するに決まっているから、死刑逃れをしようとしている」というのは決めつけです。
ついでながら、thessalonike2氏の「死刑廃止論者のネット左翼から徹底的な罵倒と糾弾の標的にされ」「人権派左翼はその意義を全く認めようとせず、狭猥で空疎な死刑廃止論の立場から本村洋を蛇蝎のごとく嫌悪し、本村洋の功績を正当に評価しようとするブログの言論に唾を吐いた」といった罵倒も酷い。
どこの誰の発言かも書かず、このように一方的に「人権派左翼」を罵倒するのは流言飛語に他ならないと思います。弁護団が「無期にしてやるから我々の言うとおりに協力せよ」と被告人に囁いたに違いないというのも、氏の勝手な想像に過ぎません。
ついでながら、氏が被告人の実名を晒す事を制裁と思っているのも何とも言えない気分です。
私は、可能なら自分の実名は名乗るべきと思います。しかし、実名、いや「諱」と呼ぶべきでしょうか、諱を暴く事をもって制裁の一環とする、それを勝ち誇るというのはどうにも腑に落ちません。
繰り返しますが、弁護団は公判でもマスコミへの取材でも、死刑廃止論を一度も主張していません。にもかかわらずthessalonike2氏に限らず、弁護人の「死刑廃止イデオロギー」を強調し、非難するのは、批判する側が死刑を当然と認識するイデオロギーの持ち主であるからです。
おりた氏は書きます。
一部の反対派の人たちが、この判決を受けて、さも「死刑支持」の人たちが、この判決を受けて小躍りしているような表現をしている人がいるのは、僕は許し難いものがあるし、何よりもこの裁判を利用して、自分たちの主義主張をしたいだけという、本件弁護団と似た臭いを感じてしまいます。
しかし、おりた氏のこの記事自体、主義主張を吐露したものに他ならないのではないでしょうか。
恐らく「主義主張」とは死刑廃止論に利用している、という意味であろうと思いますが、それを抜きにしても、事件に対して自分の見解を出す事は、主義主張の現れに他なりません。
判決を批判する人間が、薄汚い下心を持っているという意味合いで「主義主張」と表現したならば、それは間違っていると思います。
今は大阪府知事の橋下徹氏が、安田弁護士の懲戒請求を煽動したのが、昨年の5月27日「たかじんのそこまで言って委員会」(よみうりテレビ)。橋下氏は自分では請求を出さず、ただ視聴者に煽動しました。その橋下氏は、しっかりと知事として活躍しています。
次に、肝心の弁護人の主張の内容です。
『法と民主主義』2007年11月号の安田氏の記事「司法の職責放棄が招いた弁護士バッシング ――光市事件の弁護を担って」、「光市事件における最高裁弁護人弁論要旨【1】」に概略紹介されています。読んで、あまりいい気分になる内容では無いですが…。
端的に言えば、被告人に殺意は無く、過失による傷害致死である。また、検察の被害者を両手で絞め殺したという主張は、被害者の遺体からは裏付ける事が出来ない。検察の殺人罪で死刑という量刑は不当である。と、事実を争ったものです。また、家庭裁判所で、被告人が4〜5歳程度の未熟な人間と診断し、計画的な犯行ではないという意見が出されたのに検察が起訴に踏み切った事も問題にしました。
まず、被告人が下級審とは違う内容をいきなり主張したのはおかしいという批判。
しかし、冤罪事件においても、当初の供述を翻した例は少なくありません。それどころか、最後まで罪を認める供述をして、実刑判決を受けた後で、初めて冤罪が判明した場合もあります(「富山冤罪事件」)。
密室で孤立した状況に置かれて居る事は考慮すべきです。全くの冤罪でさえそうなのですから、本件のように、少なくとも人を殺した事は事実の例ならば、後難を恐れて供述しなかったとしても不自然では無いと思います。
また、綿井健陽氏「光市母子裁判 元少年の主張は一変≠オたのか」(『創』2007年11月号)によれば、例えば一審でも被告人は犯意を明確に認めては居ません。差し戻し審で失笑と怒りを買った「ドラえもんが何とかしてくれると思った」云々も、捜査段階で自供したものの、「ばかにされた」のでその後は黙っていたと公判で述べたという事です。
二審までは情状酌量狙いで、事実関係については争おうとしなかった事は判決にある通りです。つまり、被告人は当時から同じ事を考えてはいたが、あまりのアホらしさに心証を悪くすると判断した下級審の弁護人が(あるいは被告人自身の判断で)、敢えて言わせなかったという事ではないでしょうか。
今回情状ではなく、事実関係を争った事が死刑を決定づけた、という批判は、正直ずるいと思います。何故なら、情状を訴えたところで「死にたくないための言い逃れ」という批判は変わらないのであり、右へ行っても左へ行っても、批判する側の死刑という結論は同じです。
差し戻し高裁判決では、被告人側の主張を「被告人は上告審で公判期日が指定された後、旧供述を一変させて本件公訴事実を全面的に争うに至り、当審公判でもその旨の供述をしたところ、被告人の新供述が到底信用できないことに徴すると、被告人は死刑を免れることを企図して旧供述を翻した上、虚偽の弁解を弄しているというほかない。」つまり嘘吐きと断罪した上で、「そのこと自体、被告人の反社会性が増進したことを物語っているといわざるを得ない。」と結論づけました。
しかし、情状による無期という判決を最高裁が破棄した以上、同じ手は使えない事は明らかでした。そもそも、裁判で事実関係を争う事が「反社会性が増進」したというのなら、裁判の存在価値は何でしょうか? 都合の悪い判決を「そんなの関係ねえ」と放言した自衛官(田母神俊雄航空幕僚長)が、政府公認で野放しにされているというのに。
最高裁で新たに弁護人となった安田氏が、最高裁の召喚した日時に来なかった事。これは安田氏の理由付けも無用の反感を買うだけで、失敗でした。しかし、これまで事実関係を争う場合、3ヶ月程度の猶予は認められていたという安田氏の主張は、嘘ではないと思います。さすがに、過去の例からの計算はしていたでしょう。
この件のもやもやさの一つは、事実関係は争ったが、狭義の冤罪、つまり無実を争ったものではない、という点に尽きます(厳密には、一部については冤罪を争っているのですが)。
弁護人の主張が事実ならば、判断力のないアホが、訳もわからず親子を殺してしまったという事になり、あんまりにも救いがありません。
私は愚かな人間ですから、まかり間違えば、このアホのような事をしでかしたのではないかという、自分への恐れを持っています。
だから、言い逃れで荒唐無稽な事を言ったと決めつけてしまっていいのかな、と思います。安田氏は、被告人が自分のアホさを認める事から反省は始まると考えていると思うからです。
結局、被告人の弁護団は、弁護士としての仕事を果たそうとしただけと思います。事実関係を争うのに時間が欲しい、死刑には該当しない事件であり、理由はかくかくしかじかである、と。
おりた氏は「大衆を馬鹿にしているインテリ」は許せない、と書きました。
殺人か傷害致死かを争うのは、手続きとしては全く正しい。しかし、「インテリが小賢しい理屈をこね回している」と反発を受ければ、仮に弁護人の主張が真実としても、簡単に大衆的反発に吹っ飛ばされてしまう。
警察庁「犯罪統計資料(平成19年・平成18年対前年同期比較)」によれば、殺人を含めた重罪の認知・検挙人員は減少傾向にあり、平成19年度の殺人認知件数は戦後最低を記録しました。
殺人犯は減っているのに、犯罪が増えているかのように真逆の印象を抱いてしまう。実際、死刑判決数も、執行者数も犯罪数に反比例して増えています。
その結果が、今回の死刑判決だったと思います。
念のため、私は被害者遺族の見解を論うつもりはありません。被害事実を立証するのは、検察の責任ですから。
ただ、今回のような判決が定着するなら、量刑不当を理由に争う事は非常に難しくなります。
本来は懲役刑が妥当な罪状でも、検察がその気になれば死刑を求刑する事は、全くの無実をでっち上げるより遥かに楽ですし、量刑不当を争えば、それを口実に「反省の色がない」とより重罰を科す流れが出来ています。それでは検察の不備を見過ごしてしまいます。
(参考:Apeman氏「Apes! Not Monkeys! > 時事/歴史08 >」「自分のための備忘録」)
私は今回の被告人に対して、我が身のアホさに引き比べるという意味では同情しますが、犯行を擁護するつもりはありません。
しかし、「悪人を弁護するやつは悪人」とは思いません。
はっきり言って、いくらでも弁護してくれる味方のある人なら、弁護人は必要ありません。同じ強姦野郎でも、米軍人になると、頼まれもしないのに被害者を叩くマスコミもありました(『週刊新潮』など)。
誰からも見捨てられたような、どうしようもない人間こそ、弁護する人が必要と思います。
そういう弁護をするより、橋下氏のように振る舞った方が、社会的にも金銭的にも遥かに楽でしょう。私が弁護人を評価するのは、そういうわけです。
もう一つ余談。
『讀賣新聞』4月23日号「旧住専の回収妨害、弁護士の安田好弘被告に逆転有罪判決」
これは安田氏自身が被告人になった事件ですが、昨日弁護人を担当した事件の死刑判決で、今日が本人の逆転有罪(一審では無罪)判決とは、タイミングが露骨過ぎます。
以下は7月9日の加筆分です。
thessalonike2氏「世に倦む日日」に私は幾つか書き込みをしましたが、そのうちの一つ「厳罰化の流れは必然だ - 道徳教育で日本の社会が変わるまで」への書き込みを消されました。それ自体は管理人の編集権だから仕方ありません。
しかし、何を消されたのかは触れておく必要があります。
というのは、「日本は犯罪社会になり、少年による残酷な凶悪事件が増えた」とthessalonike2氏が書いていますが、上に挙げた警察庁の統計では逆に減っていて、明らかに誤りであると指摘した内容だったからです。
暗川[くらごう]氏「私のコメントが削除されました」によれば、暗川氏も同趣旨の書き込みを消されたそうです。
明らかな誤りを指摘されていながら、削除して無かった事にするのは、人としてやるべき事ではありません。参考までに、ここで消された私の書き込みを転載します。
警察庁発表によれば、昨年平成19年度の殺人認知件数は1199件。これは戦後最少の記録です。
http://www.npa.go.jp/toukei/keiji34/hanzai2007.html
もちろん、これは警察が認知した件数ですから実数ではありませんが、ともかく統計上は、戦後最良の治安状態といえます。
治安の良化と反比例して死刑判決・執行は増えているのですから、犯罪抑止の問題とは言えません。
むしろ、統計上は犯罪が減っているのに、体感上は増えているように感じられているのは何故か。何故警察は、治安の良化をアピールしようとしないのか? を考える必要があると思います。
管理人 K・MURASAME
2008/04/24 04:59
最終更新 2008/07/09 02:41